笑顔と感動に出会う旅

高頭山(富山の百山)






2019年11月10日 双耳峰の高頭山1210m(たかずこやま:富山の百山)


9月・10月は、週末の天気が悪く、降水確率が低い登山日がない状態でした。8月18日遠見尾根・カクネ里氷河眺望と白岳から84日 久しぶりに山歩きしました。山岳会で、日曜日(10日)高頭山登山企画があるので、山岳会の仲間7人と同行登山しました。下山途中標高1100m付近から左大腿後側に痛みが走り、ゆっくり休みながら下山。三枚滝分岐(標高749m)から痛みもなくなり、楽しく心地よく紅葉と富山湾の眺望歩きが出来ました。予報では、10時頃から青空になるかな思ったが、山頂は曇り、寒さが身体に感じる天気で、立山・薬師岳・剣岳・西笠山・東笠山の眺望は、白く描かれていた。紅葉と落葉が混在する登山道歩きは、最高でした。無事に山歩き出来た事に福野山岳会の皆さんに感謝します。高頭山登頂登山者は、福野山岳会8人プラス11名 駐車場付近のごみが多いです・持ち帰りましょう・・山が泣いています。


「行程」福野体育館:7時集合:参加者8人(登り3時間・下り2時間)

新熊野川発電所付近:登山道口8:37ー導水管ー三枚滝水平道ー高頭山分岐ー立山杉伐採跡9:57〜10:05ー前頭(まえずこ)ピークー鞍部ー1203.3三角点(点名小原)−1210m最高点10:48〜11:35−三枚滝分岐12:50−登山口13:28



【播隆:ばんりゅう】

江戸時代後期、天明6年(1786)に越中国河内村(富山市河内)中村順信 次男として生まれた。 生家・中村家は代々一向宗(浄土真宗)の道場であった。播隆は、十代のある時期に故郷を出て上方(京都・大阪)、尾張(名古屋)の各宗寺院を遍歴した後、浄土宗の僧侶となり 各地の山岳霊場、修行場で修行した。

文政6年(1823)6月初めて笠ヶ岳に登り、7月29日2回目笠ヶ岳登山、8月5日3回目笠ヶ岳登山・御来光(ブロッケン現象)を拝む・8月22日「迦多賀嶽(かたがたけ)再興記」を書く。

文政 7年(1824)8月5日4回目笠ヶ岳登山 山頂に阿弥陀仏像を安置する。

文政 8年(1825)伊吹山禅定・岩屋や草庵で修行する。

文政 9年(1826)案内人(安曇野市三郷小倉)中田又重付添い槍ヶ岳登山。

文政11年(1828)7月20日2回目槍ヶ岳登山、山頂に仏像を安置し開山を成す。その10日後には、穂高岳に南無阿弥陀仏と記した名号碑を安置した。

天保 2年(1831)播隆の働きで、生家(越中国河内村)に念仏道場再興した。

天保 4年(1833)3回目槍ヶ岳登山・天保 5年(1834)4回目槍ヶ岳登山・天保6年(1835)5回目槍ヶ岳登山。

天保11年(1840)8月 信徒らによって槍ヶ岳山頂に「善の綱」鉄鎖を設置された。

天保11年(1840)10月21日、中山道太田宿(岐阜県美濃加茂市)で大往生する 行年55歳

松本市内の玄向寺には、御来光の様子を詳しく記した「三昧発得記(ざんまいほっとくき)が残されている。播隆は、自らの修行だけに生きた念仏行者ではなく、里にあっては念仏の普及につとめ、わかりやすく教えを説き、民衆とともに生きた民間宗教者であった。登拝信仰を確立して、念仏講の人々を山上へと導いた。



  

   

   

    

        

三枚滝水平道からの登山道


             

導水管に沿って新熊野川発電所付近まで歩く


   

新しく出来た富山百山:高頭山表示板         1203.3m二等三角点 点名小原


  

旧河内村にある播隆上人(笠ヶ岳の登山道再興や槍ヶ岳の開山など)の生家跡や顕彰碑(日本山岳会富山支部が建立)


       

この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て 同院発行の数値地図50000(地図画像)、数値地図25000(地図画像)、及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24情使 第162号  )

参考文献:富山の百山(北日本新聞)・富山県の山(山と渓谷社)・槍ヶ岳開山播隆(松本市政100周年2007資料)